『嗤う伊右衛門』京極夏彦 角川文庫 単行本'97年中央公論社 '01年11月文庫化

 伊右衛門を知らない人でも、「お岩さん」の名は聞いたことがあるだろう。四世鶴屋南北の傑作歌舞伎『東海道四谷怪談』に登場する「顔の崩れた女のひと」である(因みに、主人の秘蔵の皿を割り、井戸に投げ込まれて亡霊となってまでも皿を数えてるのは「お菊さん」なので一緒にしないでね☆)。で、そのお岩さんを私欲のために殺す極悪非道な夫が伊右衛門なわけだ(『東海道四谷怪談』においては)。その後、時代によって『四谷怪談』は様々に書き換えられ、様々な「伊右衛門像」「お岩像」が生まれたらしいのだけれど、詳しくは知らないので興味のある人はこの本の解説をお読みくだされ。
 この『嗤う伊右衛門』の場合、伊右衛門は岩を想い、岩もまた伊右衛門のことを想っているにもかかわらず、二人は幸せになることが出来ない。このあたりが、四世鶴屋南北の『四谷怪談』における悲劇性とは種類の異なる悲劇を生み出していると考えられる。不器用な二人が、譬えようもなくいじらしくて、切なくて、哀しいのだ。二人の新婚生活を描いた部分とか、読んでて歯痒いんだけど大好き(短いんだけどねぇ)。

 最近自覚したのだけれど、多分あたしは「気持ち悪いものが好き」だ。いや、気持ち悪いだけではダメな気もする。例として、『嗤う伊右衛門』の一部分を挙げたい。これは宅悦という名の按摩が、首吊り自殺をしたお袖という少女の夢を見る場面。

    ぬるり、とした濡れた感触。
    皮膚の表面を這うように、腹の下の方から何かがせり上がってくる。
    ぬるり。ぬるり。
    宅悦は、ぎゅう、と抱き竦める。
    ぬるぬるとした柔らかいものだ。
    胸の上に袖の顔がつるりと出た。
    おお袖さんか。袖さんが来たか。
    宅悦は慈しむように強く抱いた。
    袖の躰が宅悦の腕と腹に密着し、ぎゅうと萎む。
    袖は――苦しいような、愛しげな表情になった。
    宅悦はより一層の一体感を求める。
    恍惚か苦悩か、袖は眉根を寄せる。
    顔がむくり、と膨れた。
    構いやしないよ。
    儂は御覧の通りの醜男じゃ、釣合がとれていいわい。
    膨れてしまった袖は震え、何か言いたげな顔をする。
    恥ずかしがることはねえわい。良い子だ良い子だ――。
    膨れた顔の、蕾のような小ぶりの丹花がわなないた。
    宅悦の頸に吐息がかかる。
    ああ、声が出ねえのかい。
    死んでいるんだものなア。
    死んで――。

この場面が全体的に好きなのだけれど、特に「袖の顔がつるりと出た」とか、「顔がむくり、と膨れた」とかがたまらなくステキ。擬態語の使い方が好みなのかもしれない。他にも好みのシーンは有るのだけれど、ことごとくネタバレに繋がってしまうので割愛。

 そして、あたしがこの本を読むことになったきっかけの一つに、登場人物の一人「又市」の存在がある。この又市は、京極夏彦が講談社ノベルスで展開しているシリーズ(「京極堂シリーズ」とか「妖怪シリーズ」とか「百鬼夜行シリーズ」とか言われてるアレ)の影に隠れて全く目立たないほうのシリーズのレギュラーであり、あたしはこの又市のことが非常に好きなのである。その昔WOWOWでこのシリーズがドラマ化された時に、又市を演じていた田辺誠一のあまりの可愛さにウッカリ彼のファンになりかけたくらいに。
 『嗤う伊右衛門』は、そのシリーズの中の一作というわけではなく別物なので、そちらのシリーズを読んでいなくても楽しめる。が、又市ファンとしてはシリーズ第一作『巷説百物語』(角川書店)所収「帷子辻」を先に読んでから『伊右衛門』を読んでいただけるととっても嬉しかったり。本筋には全く関係ないんだけどね・・・

これ以下の文章は、本作を読んだことがある人を対象に書かれたものなので、多分にネタバレがなされています。未読の方にはお薦めできません。 ここから書評一覧にお戻りください。




『嗤う伊右衛門』考察。こちらから年表が別窓で開きますので、参照しながら御覧ください。また、ページ数は角川文庫版のものです。

起.何が起こったのか?

まず、本作の目録に注目していただきたい。

1.木匠の伊右衛門
2.小股潜りの又市
3.民谷岩
4.灸閻魔の宅悦
5.民谷又左衛門
6.民谷伊右衛門
7.伊東喜兵衛
8.民谷梅
9.直助権兵衛
10.提灯於岩
11.御行の又市
12.嗤う伊右衛門

 三人称で語られる京極作品では、それぞれの章が、その章において焦点化されている人物の名前から始まることが多く(ex.『狂骨の夢』)、本作でも基本的にはその形をとっている(「嗤う伊右衛門」を除く)。さらに本作は、章の名前が全て登場人物からとられており、その配置が(いささかいびつな)シンメトリーを成している。1と12、2と11、3と10は同じ人物。4と9は、この一件に関わったことで運命を狂わされたものたち。6を中心に据え、8は措き、残ったのは5と7であるが、この両者は今回の一件を引き起こした張本人であると言えなくもないのである。
 そもそもは喜兵衛が、「中々己に靡かぬ又左衛門に業を煮やし、何とか手の内に囲もうと思い、娘が嫁き遅れているのを良いことに、無理な縁談を持ちかけた(文庫版116頁)」ことから始まる。喜兵衛がいつか強硬な手段に訴えることを恐れたのか、そもそも「誰にも渡したくなかった(349頁)」のか、又左衛門は薬売りの孫平に両国戸倉屋の薬を盗ませ(332頁)、岩に飲ませる(疱瘡に罹った機に乗じたのかはたまた薬のせいで疱瘡じみた病気になったのかは謎)。岩は醜く変貌するが、それについて「毒を盛られたのだ」と、喜兵衛の忠臣、堰口が言い出す。喜兵衛達はまず、岩の脈をとった医者である西田尾扇を呼びつけ、尾扇が小平を指し、小平は戸倉屋を指したので、戸倉屋の娘である梅を蹂躙して喜兵衛なりの決着をつけることにした(167−170頁)。義賊気取りの又市たちがその件で伊東宅に乗り込み、斬られる寸前のところで又左衛門が諌めに入るが、その時の「これ以上の御乱行は、兄上様の御為にもお控え下され(170頁)」という言葉がもとで、又左衛門は鉄砲の暴発に見せかけた罠によって大怪我を負ってしまい、また又市とともに伊東宅に乗り込んだ直助は、妹の袖を喜兵衛達に乱暴されてしまう。
 以上が、本作冒頭までに起こっていた出来事である。これらの情報は時系列を無視して途切れ途切れに与えられ、しかも全てを語っているわけではないので想像で補わねばならない部分もあり、全貌はつかみにくいのであるが(そもそも上で述べた「これまでのあらすじ」が正解であるという保証は何処にも無い)、読み始めた頃は全く無関係ととらえていた事柄が、実は複雑に絡み合っていたことが次第に分かってくるつくりになっている。


承.探偵小説として『嗤う伊右衛門』を読む

最近「ジャンル意識」について色々と考えたりする機会がままあるのだが、読者が読み始める前にジャンルを決定(推理?)する手がかりの一つに、「作者が今までどのような作品を書いているか」があると思う。そして、京極夏彦という作家は世間一般的に「ミステリ作家」として認識されているのだろうと推測している(個人的には彼の職業は「妖怪馬鹿」だと思っているが関係ないので措く)。故に、『嗤う伊右衛門』もまたミステリであるという前提の下に読んでみよう。

a.ミステリらしいか、らしくないか
ミステリの定義は難しいし、定義づけできるような資料も手元に無いので、とりあえず「謎を解明する話」と定義づけてみたい。確かに、本作中に謎は登場する。だが世の中に、謎が全く存在しない小説はあるのだろうか。どんな小説にも謎があるから、「全ての小説はミステリである」などと言う人が現れるのだろう(誰だっけ)。
殺人事件は起こる。どうやら小平は殺されたらしい。又左衛門の件も傷害致死にあたる。染殺しの件に関しては、犯人(梅)が犯行時間を工作して自分には犯行が不可能なように見せかけるというトリックまで駆使している。しかし、どれもこれもそれらが「殺人である」と判明したときには、犯人も動機も判明しているのだから、「殺人事件についての謎を解明する話」としては成り立たない。だが、基本的に京極夏彦の書く話は「殺人事件の犯人は誰か」を探るというよりは、「そもそも、なにが起こったのか」を描くことが主題とされているようにも思える。「なにが起こったのか」については、先に述べたとおり、断片的かつ断続的にではあるが述べられているため、本作は「京極ミステリ」としての形は整っているのかもしれない。
だが、本作は極力「ミステリらしさ」というか「ミステリ臭さ」というか、そういったものを排除したつくりになっていると思う。時代設定が近世であるということ、また針と糸を使ったトリックは登場しないということが主な理由であろうか。さらに、「なにが起こったか」について途切れ途切れに述べていることも、ミステリ臭の排除に一役買っていることと考えられる。最後のほうにまとまった「解決編」が存在していれば、それは紛うことなくミステリ臭いのである。もちろん「名探偵 みなを集めて さてと言い」などという場面が存在してはならない。だから探偵役(と言うか狂言回し)の又市が真相を語ろうとしても、「言うな。解っておる」と主人公の伊右衛門が止めなくてはならない(349頁)のだ。

b.微妙に信頼できない語り手
 本作は三人称小説であるが、先にも述べたとおり、章ごとに登場人物の一人に焦点化され、その人物の視点でしか小説世界を把握することが叶わない。或る章では焦点化され、その思考まで全て描写されていた登場人物Aも、登場人物Bに焦点化された章では、その言動を外側からしか窺い知ることが出来ないのである。また、各章で描写されている時間は基本的に重ならないので、Aに焦点化された章では分からなかったBの思考が、Bに焦点化された章では分かる、という例(ex.又市と槇の間になにがあったか)はあまり多くない。
 さらに、焦点化された章であってさえ、描写に全幅の信頼を寄せることは出来ない(死体が目の前にあるのに見えていなかった某小説家よりはマシだが)。彼らは読者に対し形而下的偽りを述べることは無いが、全てを語っているわけでもないのである。物語内で明言することが避けられている話題として、「1.岩の顔は何故醜くなったのか」と「2.岩はいつ、どうやって死んだのか」の二点を挙げることが出来る。

  1 ・己の醜い面で婿取りなど叶う訳はないと、岩はそう思うているに違いないのだ。
      不憫でならなかった。又左衛門は何故か酷く後悔し、動揺したことを覚えている。(100頁)
    ・儂が悪かった。許してくれ。凡ては儂の所為なのじゃ。(121頁)
    ・岩には悪いことをした、岩にはなんと詫びても詫び切れぬ、儂が、儂が悪いのだ――。(135頁)
    ・又市は(中略)浅草に出向いたのだった。
     そして――。(316頁)
     盗んだのは小平の父、孫平である。又市はそれは言わずに、(332頁)
    ・ もしもあの疵がなかったなら。岩が醜くならなかったなら。
     そんなことは、考えるだけ無駄である。
     仮令それが誰の所為であったとしても。(317頁)
    ・「岩様の――」
     凡ての始まりは。
     「あの――」
     最後にこれだけは。
     「言うな。解っておる。又左衛門、誰にも渡したくなかったか」(349頁)

これらから導き出される結論はやはり、「又左衛門が孫平に薬を盗ませ、岩に飲ませた」というものが最も妥当であると思う。

  2 ・隠坊堀――。隠坊堀へ。するすると景色は変わり、夜陰が岩を包む。哇哇。哇哇。
     潰れた左眼に提灯の燈が滲んだ。(291頁)
    ・真向かいには伊右衛門が、辛櫃の如き大きな桐箱の上に腰を掛けている。
     雨戸は閉ざされ、蚊帳で囲まれた座敷には、異様な香気が充満している。(292頁)
    ・「俺も――」
     伊右衛門は重苦しい口調で言った。
    「――岩はもう――」(293頁)
    ・――匂いか。
     匂いである。今は――怪しげな香の立ち籠める匂い。(中略)
     明り取りから鼠の穴まで、穴という穴が塞がれ、隙間という隙間が丁寧に閉ざされている。
     だから気が澱み、生臭く思うのかもしれぬ。(308頁)
    ・伊右衛門は一昨日、今座っている桐箱に座って欄間に板を貼っていた。(309頁)
    ・又市が、伊右衛門に櫛を見繕ってくれと頼まれたのはその時である。添うてより櫛のひとつも買ったことはなく――と伊右衛門は言い、一両を出したのだった。(309頁)
    ・その伊右衛門の指には――。
     長い髪の毛が絡まっていた。(331頁)
    ・「この梅は――己が産んだ赤子を殺めたのだ。岩に出来る筈がない」(346頁)
    ・「俺が貰うた」(349頁)

岩は、宅悦を撲殺した日に隠坊堀に向かい、伊右衛門と出会って死んだのであろう。伊右衛門は桐箱に入れて岩を家に連れて帰り、そのまま共に住んでいたのだ。時には髪を梳きながら。
 尤も、全てを語らないことがアンフェアだと言いたいわけではなく、これは本邦古典推理小説の傑作として名高い(あたしは嫌いだ)江戸川乱歩の『二銭銅貨』等でも使われているお馴染みの手である。

c.犯行の動機
事件を引き起こした張本人として、伊東喜兵衛と民谷又左衛門の二人を挙げることが出来る。この二人はそれぞれ「民谷又左衛門」「伊東喜兵衛」の章で焦点化され、その内面や生い立ちまで描かれている。
 ミステリにおいて、「犯人」に焦点化される場面がある場合その多くは、不幸な生い立ちや、犯行に及ばざるを得なかった状況等を描いて、犯人に同情させたがるというか、「彼(彼女)も被害者なんだよ」的な展開になることが多い気がする。本作の二人についてはどうであろうか。
まず伊東喜兵衛。彼は伊右衛門をして「貴様も真の悪党ならば、首が飛んでも――動いて見せよ」と言わしめる(348頁)ほどの悪人であり、その悪行三昧の動機はといえば「腹の中に溜まる泥」である。喜兵衛の心の動きについての文を読んだ人間は、その心情を理解できる人間にしろ出来ない人間にしろ、彼に対して「どうしようもない人間」という判断を下すしかない。彼に同情する人間はなかなかいないであろう。
民谷又左衛門については、花嫁の父になった経験が無いので発すべき言葉がない。「娘の良縁を願いつつ、また片方で嫁がせてなるものかとも思うのは、世の父親の習い」(108頁)という又市の言葉に「そんなものか」と思うくらいしかないだろう。
両者に共通するのは「犯行の動機がありがちでない」ということだろうか。意外な動機というものは、本邦古典推理小説の傑作として名高い(あたしは大嫌いだ)江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』を例に挙げるまでもなく、ミステリの大きな魅力である。らしいよ。


転.怪奇小説として『嗤う伊右衛門』を読む

a.怪異の必要性の欠如
本作中で起きる出来事については、その説明に怪異が介入する必要性は感じられない(「嗤う伊右衛門」の章の、伊右衛門と岩の声については一先ず措く。措かせて)。
 秋山長右衛門宅で起きる怪事については、岩の仕業だ小平が迷い出たなどと言われていたが、結局直助の仕業であったし、「岩様が染を攫うて逃げた」という梅の言葉も狂言であった。本作では多数の死者が出るが、どれも下手人については作中で明らかにされており、とり殺されたような人間は一人もいない。「この世には不思議なことなど何もない」という作りになっている。

b.岩が「祟り神」になるまで
最初に岩を妖しのものと認識するのは、彼女に対し負い目を感じている梅である。直助が権兵衛を名乗り、民谷家で暮らすようになってすぐに直助は、梅そして伊右衛門が異常に蛇を恐れることを不審に思うようになる。そして、岩が民谷家を覗いた日のこと。
    ・「毎夜毎夜蛇になりて覗き、終には――」(256頁)
普通の人間が、蛇になることなど叶うはずもない。この時点で、梅の中の岩はヒト以外の何かであったのだ。
 次に、岩が宅悦を撲殺した時のこと。
    ・中は血の海、まるで鬼が人でも食ったようサァ(294頁)
    ・走る様は韋駄天の如く。その形相悪鬼羅刹の如く――。
     狂女の鬼走り――。(295頁)
ここで重要なのは、もしこの時点で岩が生きてにしろ死んでにしろ、発見されていたならば後のような展開はなかったであろうということだ。だがしかし、「岩の行方は全く知れなかった(295頁)」。
 岩の出奔を知った梅はますます怯え、又市が民谷宅を訪れた時にはこのような態度をとる。
    ・嘘じゃ、声色を使うても無駄じゃ――。
     又市様が来る訳もない――。
     岩様、岩様――。
     許されよ――梅はそう叫んだ。(296頁)
妖しのものが、人を騙すために姿を変えたり声を変えたりという怪談は馴染み深いものである。その後、秋山宅を「崩れた顔」が覗いたり、また民谷家に蛇が入り込んで梅が癇を起こしたりしたため、それらはどちらも岩ということになる。そして、次の日から左門町界隈でひっきりなしに起こった怪事も、岩に何の関係もないにもかかわらず、全て彼女の仕業ということにされてしまう(303頁)。
 染の葬儀の時には僧侶にまで、
    ・凡夫盛る時は神も咎め少なし、衰うる時には霊、家に蔓るとかや。拙僧の観ずるにこの家には悪しきもの満ちたり。この度の不幸も如何様狐狸の脅しに非ず、用心さるるべし――。(328頁)
などと言われる始末である。
 そして、四谷左門町の怪事も、民谷家の惨事を以って一応止むのだが、
    ・微かに事情を知りたるものは、これも皆、岩様の祟りであろうと語った。
     事情を知らぬ者も祟りであるということだけは疑うことをしなかった。
     岩は祟り神となった。(350-351頁)

 ここで挙げた中で、彼女が実際に手を下したのは宅悦の一件のみである。にもかかわらず、全てが岩の仕業であるとされたのは、岩と伊右衛門を破局に追い込んだ梅や喜兵衛の、そして岩の顔を嗤った左門町の人間の、負い目がそうさせたのかもしれない(負い目というか、恐怖というか。因果応報思想?)。


結.その死は当然なのか、そして必然なのか

この本を読み返したときにいつも哀しくなるのが、梅の存在だ。
個人的には伊右衛門と岩には幸せになって欲しかったので、梅は或る意味邪魔者なのだが、どうも彼女には肩入れしてしまう。
それはきっと、彼女が幼いからだと思う。幼い彼女が、自分には全く与り知らぬ事情で不幸のどん底に突き落とされ、そこからなんとか逃げ出そうともがき、そして結局、自分が幸せになるための、せめて不幸から脱却するための、唯一のよすがとしていた伊右衛門によって斬られてしまう。
もちろん、彼女に落ち度が無かったわけではない。と言うか彼女は最低の人間だ。自分が不幸な生活から逃げ出るために、喜兵衛の策略によって引き裂かれた岩と伊右衛門の二人を見てみぬフリをし、さらに新たな不幸が生まれると、そこから逃げるために自分の子どもを殺し、それを岩の仕業に見せかけようとした。逃げることしか考えていない、そのためなら誰を不幸にしても、自分の子どもすら手にかけても構わないと考えている、どうしようもなく汚い人間だ。
それは分かっているけれど、むしろだからこそ、あたしは梅に感情移入してしまうのだろう。自分も彼女と同じくらい幼くて、汚い人間だから。そう、きっとあたしは梅と同じ立場に立たされたら、躊躇いなく彼女と同じ事をするだろう。蟻地獄のような不幸から抜け出すことが出来るなら、誰だって不幸にするし、誰だって殺すことも出来る。『姑獲鳥の夏』の内藤(ネタバレのため伏せる)も、同じ意味で批難する気にはなれない。

彼女は死んで当たり前だったのだろうか。そして死なねばならなかったのだろうか。

岩と伊右衛門についても同じ疑問を抱いてしまう。もちろん、物語の盛り上がりを考えればそのほうが良いに決まっているのだが(だって元が「怪談」だし)。伊右衛門は「生きるも死ぬも同じこと」と言うけれど、やはり生きて幸せになったほうが嬉しいと思う。だから梅は、生きて幸せになるために彼女なりの哀しい「努力」をしたのだろう。

(030205/052)



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